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シブマガ Vol.3 掲載 | tomadインタビュー Maltine Records ≠ 渋家 - 家はなにをやろうが問題無い -

文=KEITA SAITO + EDIT451 撮影=石田祐規2014.06.152005年、高校1年生のときに立ち上げたインターネットレーベル・Maltine Recordsの主宰であるtomad。渋家には、2011年に加入し約3年間、メンバーとして活動を行って来た。現在、メディアにも度々登場するtomadだが、Maltine Recordsを主宰しながら、何故、渋家のメンバーでもあり続けるのか——。今回、あまり語られることのない、tomadと渋家の関係に焦点を絞りインタビューを行った。元々、アートプロジェクトして活動をはじめた渋家が、近年、渋家地下・クヌギやクラブで音楽イベントを精力的に行うようになったきっかけは、すべてtomadとの出会いが発端である——。■ 今回のインタビューに登場する主な出来事2005 Maltine Records設立2010.06 tomadと齋藤桂太が出会う2010.11 渋家 3rd house 引っ越し2011.02 「house nation」(3rd house)2011.07 渋家 4th house 引っ越し tomad渋家メンバー加入2012.06 「歌舞伎町マルチネフューチャーパーク」(ニュージャパン)2012.08 「H&M48 - home party for 48 hours -」(4th house)2020 東京オリンピック開催 —— tomadと渋家の関係のなかで、特筆すべきは「家をクラブにした」ということだと思うのですが、そのなかで代表的なイベントである「house nation」(3rd house)、「H&M48 - home party for 48 hours -」(4th house)の内容を説明してください。「『house nation』は、毎週火曜に開催して、最大で月4回やっていました。渋家のなかで、そういうのがやりたいというのが高まってたからはじめたんですけど、気が狂ってましたね」—— 毎週やるというのは誰の発案ですか?「なんかもう全体的にノリみたいな。そこまで、外向きじゃなかったんですよ。まあ、家だったら週1くらいできるっしょみたいな。その頃、まだ僕はメンバーじゃなかったんですけど、横浜に住んでいて、渋谷が学校で、ちょっと距離があったんで、大学通って放課後寄ったり、暇な時に行ったりとか、夜中までDJとかしてるとちょっと渋家に帰って寝たりとかしていたので」—— 当時から外箱でイベントをやっていたのに、渋家でもやったのは何故ですか?「マルチネイベントはマルチネが好きな人しか来ないから、むしろその時は、やってみて、家の方が、まあなんだろう、渋家関係の人が来るから逆に外側に開かれてる感じがあってよかったです。外箱でやるより客層が違うっていうのがあって、より、よくわかんない人が来るんで、反応が想定出来ないので、やってるほうとしては面白い。外箱はまあマルチネの曲ながしてれば盛り上がるみたいな感じなんすよ。それ目当てで来てるんで。でもそうじゃない人がいるのが面白いからやりたいっていう。あと、そもそも家でやるっていう状況がまずおかしいじゃないですか。それ自体があがるみたいな。あとイベントって普通は企画を立てた所に盛り上がっていくみたいな流れだけど、家だと盛り上がった時にやればいい。盛り上がってるところにノルみたいな。だから気が楽ですね」—— 告知はしていたんですか?「Twitterでツイートはちょいちょいしてたけどそんな気合いは入れてなかったです。やってれば来るっしょみたいな。それで、本当にやってれば来た。毎回数人知らない人が来てましたね」—— その後、4th houseへの引っ越しを経て、地下にクヌギが出来て、「H&M48」は具体的にどういう内容でしたか?「結構、分担して、僕はDJと、ほかのDJ、VJのブッキングをしてまんま48時間やるっていう。それだけのイベントですよ。48時間ノンストップで家でDJをやり続ける。多分ちょうどそのときMIXXXTUREが出始めだった。MIXXXTUREっていうイベントというかパーティクルーみたいなのがあって、そもそも秋葉原のアキバコってところでやってたんですけどそこが閉店になってやる場所を探してたってのがあって、そこの人達もどんどん入れて、その他にも繋がりのあるVJとDJを全部クヌギに入れるみたいな」—— 3rd houseから4th houseへと引っ越しても渋家でDJを続けたいと思っていましたか?「なにかしら自由にできる場所は欲しいというのが音楽面ではあったのと、結構メンバーにも乗り気な人が多かったよね。としくにさんが『お金親から振り込まれた! 買うしかないっしょ!』って、でかいスピーカーを買ったりとかありまして」—— 「H&M48」というアイデアは誰が発案したんですか?「『H&M48』の前に、渋家にも参加してもらって歌舞伎町の風林会館で『歌舞伎町マルチネフューチャーパーク』っていうイベントをやりまして、その後、なんか夏だったんでさらに盛り上がりてえなみたいな頭狂った状態で突き進んで、でかい所ももうやったし48時間くらいやるか、みたいな感じでしたね」—— 体外的におもしろさや新しさは意識しましたか?「もうそれだけで新しくおもしろいみたいな感じではあって、集客は2泊3日全部で120人くらいあった。でもあれはやばかったです。朦朧となってもまだ音楽が続くのかみたいな。しかも帰りたいと思っても家だし、帰る場所に音楽が流れ続けてる。寝て起きて、寝て起きて、まだ鳴ってる。あと、その時、屋上にプールがあって、もう家全体でどんちゃん騒ぎ。あと、このイベントの間に、普通に呼ばれた他のDJのイベントいったりしてましたね」—— クヌギという名前は、どういう意味ですか?「命名したのは元メンバーで、その元メンバーがクワガタがすごい好きで、クワガタがたかる木みたいなのでクヌギってのがあって、音にたかる虫がいっぱいいる場所みたいなので、そこからとってきた。そのころなんかクワガタが流行ってたよね。なんかたかり場所みたいなイメージ。あとはこういう会話に出しててもわからない場所にしたかった。それはまあ風営法の問題というか秘密結社的なものにしたかった。知ってる人だけわかるみたいな」—— 家でやるというのは単純にどういう面白さがあるんですか?「まず好きに出来るってことと集客をそこまで気にしなくていい。好きにDJやりたかったっていう部分がでかいですけど、他のDJイベントとかやると求められるものがあるんで、求められることしかできないみたいなのがあるんですけど、家でなにやろうかっていうか、クヌギでなにやろうが問題は無いじゃないですか。あと家っていう空間とクヌギっていうのは別れてるんで、家と隣接してるけど別とも捉えられる。でも下で音がなると家にも伝わるみたいなのがあって。だから例えばクヌギが先に起動して家が起動するみたいな流れもできるし、逆に家が起動してクヌギが起動するみたいな流れもつくれる。盛り上がりの伝播のしかたみたいなのも結構面白かった」東京オリンピックとインターネット音楽tomadと渋家のそもそもの出会いは、2010年6月、2nd house時代まで遡る。当時の渋家での音楽イベントはバンドのライブが中心だったが、よりカオスなことをしたいという齋藤桂太の発案により誘われたのがtomadだった。当時は渋家にDJができる機材はなく、すぐに実現はしなかったが、約半年後、3rd houseへの引っ越しを機に、新たにスピーカーとアンプを購入し、渋家でDJが出来る環境が整う。tomadが渋家をはじめて訪れたのは、3rd house引っ越し2日目、「渋家トリエンナーレ」のトークショーのゲストとしてだった——。インタビュー後半では、tomadと渋家メンバーとの関係性、クヌギと風営法、東京オリンピックの問題について尋ねていく——。—— そもそも渋家とはじめて出会ったのはいつ頃ですか?「2010年の6月くらいに『MP3 KILLED THE CD STAR ?』というCDをマルチネの50番の型番で出して、そのイベントを渋谷のSECOBARという所で行いまして、その時に齋藤さん、としくにさんに会った。そこでの話のきっかけというのは、『NEWTRAL』っていう雑誌があって、そこのデザイナー兼ライターの人に頼まれて記事を書いてまして、そこに一緒に齋藤さんも記事を書いていたのでそういう話をふられた記憶がある」—— 『NEWTRAL』で一緒に書いていて、渋家のことは認識していましたか?「あんまそんなちゃんと『NEWTRAL』を読んでなかったので、イベント会場で初めて渋家ってものを知りはじめましたね。その時、としくにさんが女装をしていてこんなおかしい人もマルチネイベントに来る様になったのかと、普通の一般的な感想をもった」—— その時の客層はどんな感じでしたか?「結構ギークより男子が多いみたいな感じで、派手さみたいなのはあんまりない。男性客8割くらいでしたね」—— 渋家の存在を知ってどう思いました?「いや、その時はあんまりちゃんと話してなくて、ぼんやりとそういう家があるんだなぐらいに思った。その後、暇なときにツイートしてたらよく齋藤さんからリプライが飛んで来くるようになって、最初は気持ち悪い人だなと思ってた。結構、執拗に来るから。それで、丁度僕が渋谷の大学に通っていて、よく暇な時間に喫茶店とか行っていて、なんか時間が空いたから話しますかみたいなノリでTwitterで絡まれた。そんな感じでルノアールで話そうみたいな」—— 初対面の人柄の印象はどうでしたか?「別に人柄の印象はよくも悪くもなく。テンション的にはそんなにマルチネのリスナーとかとかわらない感じですね。めっちゃ高い訳でも低いわけでもない」—— 齋藤さんから『家でDJをやってくれ』と言われて、どう思いましたか?「いやまあ、あんまりない話だったけど。なんかサークルの部室みたいにしたいと、まあそれで音楽が聴いてもらえるんだったら、居場所があるんだったらやってもいいかなって」—— 家でDJをやることに戸惑いはなかったですか?「当時ユーストリームがあって、それはやってて、それとは全く別で、DJの人がやってるシェアハウスでもちょっとそういうことをやってたし、そういう家的な所でDJをやりたいってのは結構あったから話を受けたみたいな」—— DJをやるシェアハウスはいくつかあったんですか?「家でDJやるカルチャー的なのは若干あった。多分ネット的な気運で言うと丁度はてなダイアリーとかあって、ネットカルチャー的なものが、東京の人達がリアルでつながり始めた時期だったんで、Twitterが整備されるとオフ会っていうか、まあ実際に会おうみたいな、気軽にやり始めて、それで住もうみたいな流れも出来始めて、イベントも週1ではなにかしらインターネットっぽいイベントがあるみたいな時期だったんで、そういう時期に家でDJやるっていうのはまあそんな突飛な考えでもなかったかなっていう」—— そこからどういうタイミングでメンバーになろうと思ったんですか?「3rd houseまでは普通に遊びに来てて、メンバーになったのは次の家に移る時です。丁度一人暮らししたかったみたいなタイミングだったんで、まあノリで。あと、僕がDJして騒音を出しすぎたっていう騒音問題が渋家で結構ありまして。それで、もうちゃんとDJが出来る所に引っ越そうみたいな流れになって。そういう物件を一緒に探してた時期も結構あって、渋谷の地下付き物件を全部見るみたいな。今の家も観に行って、近くにローソンあるんだ、便利だなみたいな」—— 騒音問題というのは具体的に苦情があったんですか?「具体的に苦情が結構ありましたね。3rd houseの下には静寂がテーマの料理屋があって、開店中にもやってたから、その料理屋からベース音が響いてっていう苦情を受けました。壁に板をはめ込んで発泡スチロールを張れば防音だ、っていう錯覚をしてて、外にそんな漏れてないから平気っしょって言ってテンションあがって音がどんどん大きくなって苦情を受けるみたいなのは何度もあった。しかも3階でやってたんすよ。窓にベニヤ貼ってるだけだから普通に考えたら漏れるよねみたいな。路上とかにも聞こえるよねみたいな」—— そんなことがあり、4th houseに移るごたごたはどうでしたか?「まあ結構大変でした。お金が足りねえみたいになってて、としくにさんから電話がかかってきて、その時僕が丁度見知らぬ人から30万円を振り込まれてたりしてたので、いまクロークになってる3階の部屋をマルチネ部屋として貸すんで、みたいな言いかたをされて、それをそのまま横に流すみたいな感じでタイミングが異常に良かった。逆に今考えると計算しつくされてたもんねあれ」—— すぐにクヌギは使いだしたんですか?「一応ちょいちょいやったりはしてたんだけど、それでもやっぱり騒音の問題があり、防音を徐々につけたしながらやってた。音量は全然今ほど出せなかったですよ。スピーカーも1セットだった」—— 4th houseでは苦情は来なかったですか?「苦情若干ありましたね。『H&M48』のとき、さすがにずっとなり続けてるから隣から苦情が来た。あと、出演者が総勢70人くらい、入場者含めたら200人くらいいたので、苦情がきちゃって、警察が来ました、ローソン前に」—— マルチネはネット配信だし、音楽はイヤホンでも聞けると思うのですが、リアルな場は必要なんですか?「リアルの場は必要だと思っていますね。そうじゃなきゃイベントとかもやらないと思うんで、もう場所は絶対必要じゃないですか、音楽は冷静に考えたら。1人で聴くのも悪くないですけど、ダンスミュージックはそれだけじゃない力が働いてる気がしていて、そういう音楽の効果が一番高められる場所を適切に用意してあげるっていうのは結構理にかなってるというか、みんなリアルな場所に来るし、それでマネタイズも出来ると、アーティストにもお金が行き届くし、それが循環していけば面白くはなると思いますね」—— 先ほどクヌギに来る客は異質な人が多いと言いましたが、そういった出会いを求めているのですか?「まあ普通に興味はありますよね。そういう刺激を求めてるっちゃ求めてる。クラブで踊ってる人ってイベントが楽しそうだからみたいな、結構、理由が明快なんですけど、家にわざわざ来て踊りたくなるって結構、複雑な理由がそれぞれにあると思うんですよ。ハードルが高いと思ってるんでその分濃いとは思ってるんで、どうして来たのかみたいな。何故君はここで踊っているのかみたいな、ひとつひとつ問いつめたい気持ちはありますよね」—— クヌギだとかける音楽も意識的に変わりますか?「まあ変わってきてるんですけど、むしろ最近は主従が逆転しててどこのクラブに行っててもでかいクヌギだなくらいにしか思わない。この前リキッドルームとかでやったんですけど、まあクヌギかなみたいな。クヌギっぽいな、みたいな」—— tomadが渋家に加入してからDJをはじめたメンバーが何人かいますが、育てる意識はありましたか?「育てるって意識は無かったですね。なんかやるならやれば、みたいな。まあ僕が来る以前よりは、クラブミュージックみたいなのが普通の人っていうか、興味ない人にも受け入れられたっていうのは普通に嬉しかったっていうのはあるし、こういう広がりも出来るんだっていう実感が湧いたみたいな感じはありますね。それまでクラブミュージックってオシャレな人しか聞かないみたいなイメージがあったりとか、それこそ超アンダーグラウンドでやるとか、そういうのだともう発展性が無いと思ってたんで、開かれた形でクラブミュージックをやるにはどうしたらいいかみたいなのを考えてたんで、まあ、地道ですけど、渋家の中の人にも広がったっていうのは面白かったですね」—— 現在はマルチネのtomadとして外のイベントで渋家と絡む事もありますが、渋家の評価はどうですか?「気に食わないとかは一切無くて、むしろいい。まあそれは僕にとっていいって言うよりも渋家にとっていいんじゃないかなっていう。音楽を流すだけでそれなりに価値を生みだせるってのは結構特殊な状況ではあるし、渋家がやるのはああいう方向しかないでしょ。もともと渋家は音楽集団ではないし、パフォーマンスとか演劇とかダンスの方が特化してるので、そういうほうにあわせて出し物的にやったほうが盛り上げれるし、ああいうノリが生まれたきっかけはクヌギってのはあるっちゃある。その色んな部分を削ったり増やしたり、どう外向けにやるかみたいな感じですよね。まあバランスですね。ずっとこれだとちょっと辛いんで、淡々とやって盛り上がるのもありつつも、パフォーマンスもやるみたいなのが丁度いいんじゃないかな、みたいな感じですね。最終的に集客につながって盛り上がればいいんじゃないっていう」—— 現在、メディアから求められて風営法について度々発言していますが、風営法をどう考えているか改めて教えてください。「風営法は別にダンスを全部禁止してるわけじゃないんで、適切な設備の元に適切な時間にやればOKだと国は言ってるので、それに従ってやればいいかなっていう。なのでオールは法律破るんだったらやめて、デイでやってもマルチネ的にはほぼ問題ないので、広さは150人くらいのキャパじゃなきゃできなくなるんすけど、まあそれはそういう広さをちゃんと整えた上で商業的なのはやって、そこまでに行く段階として家が機能すればいいかなみたいな。家って言っても個々の家で盛り上がるのは近所の問題とかあるんで、それだったらばある程度盛り上がれる渋家みたいな家を用意して、そこで育って外の箱に行ってちゃんと適切に法のもとで利益をあげるとか還元するとかしたら1番いいんじゃないのかなっていう」—— 風営法に限らず、今のクラブでは出来なくて家だとできることは何ですか?「家なので家で出来る事はできるわけですよ。クヌギは風営法の問題が話題にあがったから作られたっていうものでは無いので、踊ったりするのがメインだけどそれ以外の事もやっていい空間ではあるわけで、それとDJの相性が良かったっていう話だから、そういう流れが出来るのが結構面白いかなって。そもそもクラブに行くよりも家で友達と盛り上がってたほうが面白い事ってたくさんあるじゃないですか。まずそれが出来るってのが一番大きいと思いますクヌギに関しては。そしてそれが多少、外に開かれてる可能性もあるという所がさらに面白い所で、思いがけない人が来たりとかしてさらにテンションがあがるみたいな」—— コミュニティとしてマルチネと渋家の違う部分は何ですか?「まあマルチネは家を持ってないって部分。渋家の根幹事業は家っちゃ家じゃないですか、マルチネ根幹事業は音楽っちゃ音楽なんで、その違いは結構でかくて、そこの違いもむずいっちゃむずいんですけど、そこらへんの領域を分けるのは難しいっていうか、かぶってる領域もあるしかぶってない領域もあるみたいな感じですかね。まあマルチネもコミュニティみたいなもんだけど、そもそもリアルコミュニティみたいなのがなかったので、そういうのがネットはそんな表出って問題化しないみたいな。それにまつわる事柄みたいなのも一通りあるわけじゃないですか。そういう部分は勉強になったかなみたいな感じです」—— ソフトとハードの違いということですか?「まあ音楽はコンテンツなんですよ。多分それを流して享受するために家が必要だと思います。クラブミュージックは特に、クラブミュージックの出来初めも最初ウェアハウスっていうガレージパーティーみたいな感じだったんで、家と密接に結びついてる感じだと思うんですよ。音楽があっても悪い方向には行かない、無いよりはあったほうがいい。だからクヌギで噛み合わせようとして歯車を作った」—— 今後、渋家と関わっていく上で期待してることはありますか?「もっとでかいクヌギが欲しい。もっと良い環境の家でDJプレイがしたい。もっと良い音でDJプレイがしたい。もっとたくさんの人が家に集まってDJプレイがしたい。とかですかね」—— それは例えば外箱を買うということとは違うんですか?「外箱は買えるお金があるんだったら買ってほしいですけど、でも、外箱を買っても普通に営業しちゃだめなんですよ、多分。根本的には10億円あれば家でかくしたい。家はでかいほうがいい。僕はもうある程度家がでかくなったらもうクラブでのDJとか一切やめようと思っていて。ある程度というか、150人とか入るんだったら別にもういいかなみたいな。そこから先はオーガナイザーとしての興味はあるんですけど、自分のDJプレイとしての興味はあんまりないなっていうのが分かってきたんで、オーガナイザーをやりたいなっていう。別に自分がDJで1000人湧かせても辛いだけって感じで、それを上からみるのは面白いなって感じですね」—— 将来的には音楽以外の事をやる可能性もあるんですか?「もうほとんど音楽以外の事しかやってないです。ノリです。根本的には。まあ現状あと10年くらいは音楽は面白いんじゃないですかね。面白いからやってるってだけで、つまんなくなったら別のことやる可能性が高い。それまで絶対場所が必要だっていう問題はあって、それを運営するのに渋家は長けてるだろうから10年くらいはやってもいいんじゃないだろうかってだけですね。まああと10年くらいがちょうどいいかな。東京オリンピックを狙っていい感じにやってるんで、そこで絞りきったらもう他の場所に飛ぼうかなみたいな」—— 東京オリンピックに対して狙っていることとは何ですか?「オリンピックがやばいのは、一番インターネットなんですよ。つまりダンスと運動は同じなんです。オリンピックって別に各地で記録だけとっても良い訳じゃないですか。厳密に決められた空間を、アジアとか北米圏とかにひとつひとつ用意して、それぞれのタイミングで。でもそれが無理なんです。多分、気象が重要になってくるんですよ。つまり、正確な記録をとるためには条件もある程度一致させないといけないんです。それとインターネット的なダンスミュージックって相性がいいんじゃないかと。まず音源はネットがあれば世界にばらまけるわけですよ。でもなにかしらひとつ集まる場所が必要っていうのは言ったじゃないですか。その時にすごいリアルな話を言うと、今は飛行機代がかかりますと、コストがかかります。その時に実際色々集まる候補みたいなものはあると思うんですよ、ニューヨーク、イギリス、フランス、シンガポールみたいな。その時々によって集まれる場所があると思う。日本だけで考えた時には東京じゃないですか、日本人がまだ集まりやすいと、インターネットの人がそのために地方から出てきて数千人が集まる。それはまあ現実に起こってる。それを世界規模にでっかくしたいだけの話なんです。それを丁度オリンピックと重ねると運動も見れるしダンスも出来るみたいな。それで家もあるとそこからコンテンツも生み出せるという流れになって、より面白いことが起きる可能性もでっかくなって世界的に強いのかな、みたいな感じです」—— 10年後はどのような状況になると予測しているんですか?「マルチネのコンセプトはポップとダンスというのがあるんですけど、ダンスっていうのを定義した以上、ダンスは1カ所でやる重要性があると思っていて、やっぱり1つの場所に集まってダンスすることは一番理にかなってる気がするんですよ、今の所は。EDMとかありますけど、根本的な普遍的な需要で、つまり身体的なものに関わってくるんじゃないかという直感があって、みんな集まってダンスするっていう状況は結構需要があるんじゃないかみたいな。1カ所でやるっていうと、場所の必要性があるじゃないですか。あと時間の必要性があると思っていて、場所とか時間が決まっている事柄で、それが一番遠くにある事って、オリンピックだと思ってるんですよ。世界各地の中でそれが決まっていて、しかもどの国家のステートメントからも外れていると。そういうのは結構重要で、インターネットと組み合わせた時になにが起こるかっていうと、インターネットっていうのはそもそも国が関係ない、つまりワールドワイドウェブって言ってるくらいだから。でもそうなった時にワールドワイドにも関わらずどこか場所がいるっていうタームがくるんですよ。それを渋家に持って来れないかなっていうのを狙ってるんですけど、家でダンスしてても物足りないっていうか、家でダンスが物足りる状況だったら今頃クラブとか無いと思うんで、まあ5年くらいだったら渋家でも耐えられるかなって感じなんですけど、それ以降になるともう国家規模の問題になってくるんで、あと領土と意識の問題になってくるんで、それを家で対応するのはむずいかなみたいな。ギリギリ5年10年は対応出来るんじゃないかなっていう読みがあります」—— 東京オリンピックの問題として、文化プログラムの議論が不十分だと感じますが、どう思いますか?「盛り上がってないのはいいんじゃないですかね。盛り上げられるみたいな。盛り上がってるところ行って盛り上げるのは大変なんですよ。盛り上がってたら盛り上がってるところにやっぱり飲まれちゃうんで。盛り上がってないっていうほうがいいんじゃないですか。その中で頑張りたいみたいな。普通の努力として。あと、もっと外と中を同時に考えるべきだと思っていて、コンテンツも別になくはない、あるっちゃあるじゃないですか。いってみれば。むしろ問題なのは外と波長を合わせたコンテンツが無いみたいな問題なんですよ。それが外だけ作る人と、内だけ作る人と、意識的に別れてるのがあんまりよくないかなって。それを両方やれたらなっていう。箱だけあってそこに物を入れれば何とかなる、じゃなくて、箱をつくるためのそれ自体もストーリー的っていうか意味があって箱を作るみたいにしないと駄目だよねってこと。そういう事をやればもっと盛り上がるのにな、みたいな感覚はある」—— 東京オリンピックの開催が決定してから活動はどう変化しましたか?「変化はないんですよ、むしろ変化が無い方向を取ったという。大枠で言うならば根本的にはインターネットっていうものを考え直したみたいな部分ですかね。ある程度レーベルとしてのモデルみたいなのは獲得してきたと思っているし、tofubeatsとかもメジャー行ったりとかして、そこの強さみたいなのは持ってると思ってるんですよ。だからそのまま普通のレーベルになることも出来たと思うんですよ。それを避けてインターネットレーベルであり続けることをとったほうが得だなって考えるようになったっていうことです。活動的な変化は無い方向を取ったけど、やる事は増えたなみたいな感じです。あと小さい波と大きい波があるんで、それをどう組み合わせるほうがいいのかみたいなのを考えてますね。あと確実に海外を意識し始めたってことですね。つまりインターネットっていうのは別に日本だけのものじゃないっていう根本的なところに立ち返ったと言う話。かつ音楽が、ダンスミュージックが、非言語だっていう所に立ち返ったみたいな感じですかね」—— 先ほどのマルチネと渋家の歯車が噛み合った時に、そういったものが実現可能になるということですか? 「最近着想を得てるのはドゥルーズ・ガタリの『千のプラトー』とか現代思想からの着想が多くて、リトルネロの概念とか、つまり小鳥の歌声なんだけど、つまりそういうことだよ。小鳥たちは自分達のいる場所で歌うから歌った場所がその小鳥たちの領域になると、そういうところからガチで影響を受けてやっている、みたいな。1人でやれることは限られてるので何人かとやったほうが、面白いものができるってのは普通にどの時代からもあった事だと思うので。基本的には、マルチネも渋家もそう、変わらなさはあるよね。まあ同じだなと思うけど、まあ違う部分もあるっちゃあるなという感じなので、多分合わせると強い気がするんですよ。それで、僕はあわせようと頑張ってるけど、でも結構難しい。まだあんま噛み合わないなって感じはするので、そのためには今後色々しないとなと。でも僕が現状みていて、出来ている場が世界でひとつも無いんですよ。なのでそれができるとかなり強い」

シブマガ Vol.3 掲載 | 100年後の渋家 (休載)

シブマガ創刊号、第二号と連載していた「100年後の渋家」ですが、今月号は少し、お休みして「かつて自分の作品であった渋家の話」をしたいと思います。読者の皆さんには「としくに社長の渋家日記」でヘルハウスの頃の話が出てきたり、ちゃんもも◎やインターネットおじさん、tomadのインタビューなどで、その様子が垣間みえているかと思いますが、僕も「渋家の作者」として「かつて自分の作品であった頃の話」をしてみたいと思ったんです。よくご存知の方もいらっしゃるかもしれませんが、渋家は「元々は」僕、個人の作品です。この「元々は」というのが、とても厄介で、今でも頭を悩ませる問題なのですが、僕は二十歳の誕生日に、この作品を思いつきました。当時の僕はまだ、作品に名前も付けておらず、メンバーの一人の中島晴矢という奴が好きだった中島らもの持ち家が、昔「ヘルハウス」と呼ばれていたことに由来して、僕が借りた家にヘルハウスと名付け、それが定着して、なんとなく、そう呼ばれていました。その辺りの雰囲気は「社長日記」に譲るとして、僕が当時、考えていたことを話します。僕は当時、うだつの上がらない引きこもりでした。うだつの上がらない引きこもり、という言い方は奇妙に感じるかもしれません。引きこもりの「うだつが上がる」とは、どういう状況なのか。しかし僕は今でも信じているのですが、人間は引きこもっている時だけ、複雑な世界と戯れ、新しい遊びを発明できます。しかし引きこもりには大きな問題があります。よほどのお金持ちや、食べ物を必要としない生き物にでもならない限り、僕たちは引きこもり続けることができないのです。僕は高校を卒業して家に引きこもり続けている間に、大きな問題を発見してしまいました。そこで、様々なことを考えました。当時、話題になりつつあったデイトレードで、どうにか暮らしていけないだろうか、とか、昔から小説を書きたいと思っていたので、一発あてれば生きていけるのではないか、とか。しかし、どれもこれも、方法は分かっていても、実際には手を付けられませんでした。理由はいくつかありました。例えば僕は、お金持ちになりたい訳ではありませんでした。だから自分が何に使うのかわからないお金を、投資でひたすら稼ぎ続けるのは、技術的にだけでなく、精神的にもキツそうだと思いました。それから小説を書こうにも、書きたいことは何も無かったし、書きたいことが無いことを書く小説が、既に無数に書かれていることも知っていました。なので、自分の作品と呼べる何かを考え、それに投資してリターンを得ようと考えました。それからは一生懸命、作品について考えました。それまで全く興味を示さなかった大学受験予備校にも、芸術論の授業があると知り、その授業だけを週に一回、単科で受講しました。そこでは「作品」の立ち上げメンバーと出会ったのですが、それも「出会った」というよりは「勧誘した」という感じだったと思います。家を借りる前にも一緒に映画を撮ったり、路上でパフォーマンスしてみたり、色々してみたのですが、積み重ねの全く無いド素人が何をやっても、なかなかしっくりきません。勧誘した他のメンバーは、みんな様々な積み重ねがあって、少し羨ましくも思いました。そんな時に、引きこもってインターネットで芸術について調べていたら、wikipediaの現代美術のページを発見しました。そして調べるうちに、様々な現代美術の作品を発見しました。僕がそれらの作品を見て理解したことは、どうやら技術や積み重ねではない領域で、作品と呼ばれているモノがあるらしい、ということだけでした。当時の僕は、とにかく何も積み重ねの無い場所から、最低限、投資すべき価値のある作品を作り上げることに、必死になっていました。もしかしたら今でもそうなのかもしれません。そこで自分が現代美術家だとしたら、何を作るか論理的に考えてみることにしました。そして自分の考えを簡単な文章にまとめてみることにしました。結論から言えば、その文章は誰からも理解を得られませんでした。芸術論の講師を勤めていた画家の先生からは破門のような扱いを受け、両親には「あなたは人から理解を得られるように努力すべきである」との助言を受けました。しかし僕には、なぜか、自分の考えた新しい遊びに対する、謎の自信がありました。今になって冷静に考えてみれば、その自信は全くの的外れで、稚拙な自己顕示欲でした。でも引きこもって新しい遊びを考え続ける中で、その遊びだけは特別なものに感じました。当時の文章が残してあるので、そこから少しだけ引用します。芸術は、まず人間が最も縛られるであろう生や死から解放され、いまや宗教による弾圧や科学技術の未発達からの自由をも獲得した。では次に何からの自由を目指すべきか。(中略)全ての人が表現できる手段を持つ現代において、作品は個人以外には影響を持ち得ない。つまり、そういった意味で対立や比較は無意味である。現代芸術が一般的な人間にとって不可解であるのは、非常に個人的な対立や比較を、さも重大に取り扱うからに他ならない。(中略)この個人的な状態から芸術が脱するためには、どうすればいいだろう。私は公的なものにおいてのみ、その可能性をみる。公的であるものは、その特性として、特定の場にしか存在せず、その存在を存在することでしか表現しない。(中略)公的であるものは場に依存する。その場に人が来ない限り、それは認知されない。そういう意味で公的なものは非力である。しかし逆に歩み寄ってきた人は、既にその作品の影響下に置かれているとも言える。ここに公的な芸術の長所と短所は集約されている。(中略)また科学技術の発展によって場は大きな可能性を得た。旧来の作品が物理空間の中でしか存在できなかったのに対し、新たな作品は情報空間の中にも存在することができる。個人的な作品でさえもインターネットという場に設置して活動する人が存在するのだ。(中略)それでは現代において芸術家がすべきことは何か。必要となるのは作品の定義の拡張である。その拡張された作品の定義に従って、芸術家は作品を作るべきなのだ。今日までの芸術作品は芸術的作品と呼ばれるべきだろう。(中略)つまり現状における「芸術」という肩書きは解体され「芸術作品を発表する場」が芸術作品となる時代がくる、ということである。既存の芸術の価値は骨董品的なものとなり、一定の手続きを踏むことによって、それが価値を持つものだと判断する人間が存在する限りは、その分の価値だけが存在するだろう。(中略)マーケティングとコマーシャリズムによるイメージが、そのものの価値を形作る。それは現状のコンテンツのありようと変わることはない。それが「芸術」であるか「商品」であるかは瑣末な問題である。(中略)場を提供することは「その場に参加する様々な人たち」という多大な不確定要素を含めた手法の変化である。その個人と「歴史を共有する者たち」の間でしか理解されないのが現代における芸術の限界であるならば、それらの「芸術」という肩書きの解体は、既存の芸術から脱した新たな存在が作品として受け継がれていくための希望となるのではなかろうか。抜粋ですが……。僕は2007年12月18日、このような文章を書いて、家を借りることを決めました。今、読み返すと無知で血気盛んな若者という感じですが、当時は真剣に、自分の作品によって芸術という枠組みが解体される、と信じていたんだな、と思います。もちろん、今でも本質的な部分は、それほど変わってはいません。しかし少しだけ、変わったことがあります。それは作品が自分「だけ」のものであることに、こだわらなくなったことです。冒頭で「かつて自分の作品であった渋家の話」と書きましたが、現在の僕にとって、渋家は自分だけの作品ではなくなってしまいました。それは実際に、例えば渋家のパフォーマンスや制作物を見て、そう感じる、ということも大きいのですが、それ以上に「みんなで作っていると考える方が楽しいから」という、気持ちの変化が訪れたからです。「100年後の渋家」という小説も、登場人物には渋家のイベントや所属するメンバーの子孫がいっぱい出てきます。前回も出てきたし、これからもたくさん出てくるでしょう。そのような時、例えば彼の祖父はこういう性格だから、とか、このイベントが続いていけばこうなっていくはずだ、とか、想像を膨らませながら書いています。それは私の頭の中から出てきた文章であっても、私だけの作品とは呼びたくないのです。そういう訳で、この小説が、どのような経緯で、どのような気持ちで書かれていくのか、ということも含めて、話をしたかったので、今回は休載という連載をしてみました。凄く個人的で、瑣末な問題だとも思いますが、一方で、そのような「個人の作品ではない小説」というものに、可能性を感じていることも確かです。なので、これからも小説を読んでくださる方は、ぜひ渋家にも遊びに来てください。そして例えば、遊びに来てたまたま会話したメンバーの子孫や出くわしたイベントが、これから小説に現れるかもしれないということを、少しでも想像していただければと思います。来月からはまた通常の小説モードに戻りますが、また折をみて「休載」できればと思います。以上「100年後の渋家」の著者、齋藤桂太でした。