シブマガ Vol.3 掲載 | 100年後の渋家 (休載)

シブマガ創刊号、第二号と連載していた「100年後の渋家」ですが、今月号は少し、お休みして「かつて自分の作品であった渋家の話」をしたいと思います。


読者の皆さんには「としくに社長の渋家日記」でヘルハウスの頃の話が出てきたり、ちゃんもも◎やインターネットおじさん、tomadのインタビューなどで、その様子が垣間みえているかと思いますが、僕も「渋家の作者」として「かつて自分の作品であった頃の話」をしてみたいと思ったんです。


よくご存知の方もいらっしゃるかもしれませんが、渋家は「元々は」僕、個人の作品です。

この「元々は」というのが、とても厄介で、今でも頭を悩ませる問題なのですが、僕は二十歳の誕生日に、この作品を思いつきました。当時の僕はまだ、作品に名前も付けておらず、メンバーの一人の中島晴矢という奴が好きだった中島らもの持ち家が、昔「ヘルハウス」と呼ばれていたことに由来して、僕が借りた家にヘルハウスと名付け、それが定着して、なんとなく、そう呼ばれていました。

その辺りの雰囲気は「社長日記」に譲るとして、僕が当時、考えていたことを話します。


僕は当時、うだつの上がらない引きこもりでした。

うだつの上がらない引きこもり、という言い方は奇妙に感じるかもしれません。引きこもりの「うだつが上がる」とは、どういう状況なのか。しかし僕は今でも信じているのですが、人間は引きこもっている時だけ、複雑な世界と戯れ、新しい遊びを発明できます。

しかし引きこもりには大きな問題があります。よほどのお金持ちや、食べ物を必要としない生き物にでもならない限り、僕たちは引きこもり続けることができないのです。

僕は高校を卒業して家に引きこもり続けている間に、大きな問題を発見してしまいました。


そこで、様々なことを考えました。

当時、話題になりつつあったデイトレードで、どうにか暮らしていけないだろうか、とか、昔から小説を書きたいと思っていたので、一発あてれば生きていけるのではないか、とか。しかし、どれもこれも、方法は分かっていても、実際には手を付けられませんでした。

理由はいくつかありました。

例えば僕は、お金持ちになりたい訳ではありませんでした。だから自分が何に使うのかわからないお金を、投資でひたすら稼ぎ続けるのは、技術的にだけでなく、精神的にもキツそうだと思いました。それから小説を書こうにも、書きたいことは何も無かったし、書きたいことが無いことを書く小説が、既に無数に書かれていることも知っていました。

なので、自分の作品と呼べる何かを考え、それに投資してリターンを得ようと考えました。


それからは一生懸命、作品について考えました。

それまで全く興味を示さなかった大学受験予備校にも、芸術論の授業があると知り、その授業だけを週に一回、単科で受講しました。そこでは「作品」の立ち上げメンバーと出会ったのですが、それも「出会った」というよりは「勧誘した」という感じだったと思います。家を借りる前にも一緒に映画を撮ったり、路上でパフォーマンスしてみたり、色々してみたのですが、積み重ねの全く無いド素人が何をやっても、なかなかしっくりきません。

勧誘した他のメンバーは、みんな様々な積み重ねがあって、少し羨ましくも思いました。


そんな時に、引きこもってインターネットで芸術について調べていたら、wikipediaの現代美術のページを発見しました。そして調べるうちに、様々な現代美術の作品を発見しました。

僕がそれらの作品を見て理解したことは、どうやら技術や積み重ねではない領域で、作品と呼ばれているモノがあるらしい、ということだけでした。

当時の僕は、とにかく何も積み重ねの無い場所から、最低限、投資すべき価値のある作品を作り上げることに、必死になっていました。もしかしたら今でもそうなのかもしれません。

そこで自分が現代美術家だとしたら、何を作るか論理的に考えてみることにしました。そして自分の考えを簡単な文章にまとめてみることにしました。


結論から言えば、その文章は誰からも理解を得られませんでした。芸術論の講師を勤めていた画家の先生からは破門のような扱いを受け、両親には「あなたは人から理解を得られるように努力すべきである」との助言を受けました。

しかし僕には、なぜか、自分の考えた新しい遊びに対する、謎の自信がありました。

今になって冷静に考えてみれば、その自信は全くの的外れで、稚拙な自己顕示欲でした。

でも引きこもって新しい遊びを考え続ける中で、その遊びだけは特別なものに感じました。当時の文章が残してあるので、そこから少しだけ引用します。


芸術は、まず人間が最も縛られるであろう生や死から解放され、いまや宗教による弾圧や科学技術の未発達からの自由をも獲得した。では次に何からの自由を目指すべきか。
(中略)
全ての人が表現できる手段を持つ現代において、作品は個人以外には影響を持ち得ない。つまり、そういった意味で対立や比較は無意味である。現代芸術が一般的な人間にとって不可解であるのは、非常に個人的な対立や比較を、さも重大に取り扱うからに他ならない。
(中略)
この個人的な状態から芸術が脱するためには、どうすればいいだろう。私は公的なものにおいてのみ、その可能性をみる。公的であるものは、その特性として、特定の場にしか存在せず、その存在を存在することでしか表現しない。
(中略)
公的であるものは場に依存する。その場に人が来ない限り、それは認知されない。そういう意味で公的なものは非力である。しかし逆に歩み寄ってきた人は、既にその作品の影響下に置かれているとも言える。ここに公的な芸術の長所と短所は集約されている。
(中略)
また科学技術の発展によって場は大きな可能性を得た。旧来の作品が物理空間の中でしか存在できなかったのに対し、新たな作品は情報空間の中にも存在することができる。個人的な作品でさえもインターネットという場に設置して活動する人が存在するのだ。
(中略)
それでは現代において芸術家がすべきことは何か。必要となるのは作品の定義の拡張である。その拡張された作品の定義に従って、芸術家は作品を作るべきなのだ。今日までの芸術作品は芸術的作品と呼ばれるべきだろう。
(中略)
つまり現状における「芸術」という肩書きは解体され「芸術作品を発表する場」が芸術作品となる時代がくる、ということである。既存の芸術の価値は骨董品的なものとなり、一定の手続きを踏むことによって、それが価値を持つものだと判断する人間が存在する限りは、その分の価値だけが存在するだろう。
(中略)
マーケティングとコマーシャリズムによるイメージが、そのものの価値を形作る。それは現状のコンテンツのありようと変わることはない。それが「芸術」であるか「商品」であるかは瑣末な問題である。
(中略)
場を提供することは「その場に参加する様々な人たち」という多大な不確定要素を含めた手法の変化である。その個人と「歴史を共有する者たち」の間でしか理解されないのが現代における芸術の限界であるならば、それらの「芸術」という肩書きの解体は、既存の芸術から脱した新たな存在が作品として受け継がれていくための希望となるのではなかろうか。


抜粋ですが……。

僕は2007年12月18日、このような文章を書いて、家を借りることを決めました。

今、読み返すと無知で血気盛んな若者という感じですが、当時は真剣に、自分の作品によって芸術という枠組みが解体される、と信じていたんだな、と思います。

もちろん、今でも本質的な部分は、それほど変わってはいません。

しかし少しだけ、変わったことがあります。

それは作品が自分「だけ」のものであることに、こだわらなくなったことです。


冒頭で「かつて自分の作品であった渋家の話」と書きましたが、現在の僕にとって、渋家は自分だけの作品ではなくなってしまいました。

それは実際に、例えば渋家のパフォーマンスや制作物を見て、そう感じる、ということも大きいのですが、それ以上に「みんなで作っていると考える方が楽しいから」という、気持ちの変化が訪れたからです。


「100年後の渋家」という小説も、登場人物には渋家のイベントや所属するメンバーの子孫がいっぱい出てきます。前回も出てきたし、これからもたくさん出てくるでしょう。

そのような時、例えば彼の祖父はこういう性格だから、とか、このイベントが続いていけばこうなっていくはずだ、とか、想像を膨らませながら書いています。

それは私の頭の中から出てきた文章であっても、私だけの作品とは呼びたくないのです。


そういう訳で、この小説が、どのような経緯で、どのような気持ちで書かれていくのか、ということも含めて、話をしたかったので、今回は休載という連載をしてみました。

凄く個人的で、瑣末な問題だとも思いますが、一方で、そのような「個人の作品ではない小説」というものに、可能性を感じていることも確かです。

なので、これからも小説を読んでくださる方は、ぜひ渋家にも遊びに来てください。

そして例えば、遊びに来てたまたま会話したメンバーの子孫や出くわしたイベントが、これから小説に現れるかもしれないということを、少しでも想像していただければと思います。


来月からはまた通常の小説モードに戻りますが、また折をみて「休載」できればと思います。

以上「100年後の渋家」の著者、齋藤桂太でした。

Keita Saito Official

美術家/文化事業家/渋家株式会社取締役 齋藤恵汰